横浜Fマリノスの歴史~発足~初期~中期~現在
発足から初期まで
1991年に日産自動車サッカー部を母体としてJリーグ開幕時から加盟しているいわゆるオリジナル10の一つのクラブです。
チーム名「マリノス」は船乗りを表すスペイン語で横浜が港町であることが由来。
Fに関しては、同じくオリジナル10の一つでホームタウンが同じだった横浜フリューゲルスを吸収する形で合併したのでフリューゲルスの頭文字をチーム名に入れています。
フリューゲルスの親会社であった全日空からもスポンサードを受けることになったマリノスはJリーグ有数の資金力に恵まれたチームでしたが、残念なのはサッカー関連施設です。
2007年に完成したマリノスタウンと呼ばれた練習場、クラブハウスは一等地に建設されて莫大な建設費、土地代を払い続けることとなり長年、経営を圧迫。
結局は、練習場を移転しています。
2001年に日韓ワールドカップの決勝を行うためにつくられた日産スタジアムは日本最大の収容人数72,000人を誇りますが、陸上競技場なのが残念。
超巨大陸上競技場で見る試合は、とにかく遠くて見にくいとJリーグファンの中でも悪名高いスタジアム。
また、2002年までは日産自動車と全日空が株式を分け合って所有していましたが2002年に日産が完全に買い取り、元の日産主導体制に戻りました。
2014年にマンチェスターシティ・フットボールグループと日産自動車がグローバルサッカーパートナーシップを締結したことでシティフットボールグループと共同所有という形となり、チーム運営に関わっています。
世界でも有数のサッカー経営グループが参画していながら、どのような関わり方をしているのかが見えづらく上手くいっているのかは、まだよく分かりませんね。
というわけで恵まれているのか、恵まれていないのかよく分からない横浜FマリノスのJリーグでの活躍を振り返っていきます。
前身の日本サッカーリーグで井原正巳選手、木村和司選手、水沼貴史選手を擁して強豪だったマリノスはJリーグ初期にはアルゼンチン代表の名ストライカー・ラモン・ディアス選手を獲得してJリーグ初代得点王となるなどスタート時から強豪であり続けて,1995年にはリーグ優勝を果たします。
ラモン・ディアス選手の他にもオズワルド・アルディレス監督、サリナス選手などアルゼンチンサッカーとの関係が深かったですね。
2000年には中村俊輔選手リーグMVPを獲得し地元出身選手がチームの顔に成長します。
このころからアルゼンチンサッカー路線を断念してJリーグの他クラブから結果を出した選手を引き抜く国内路線にシフトチェンジ。
2002年には中村俊輔選手が欧州へ移籍したものの中澤佑二選手、久保竜彦選手、マルキーニョス選手、奥大介選手など他クラブの主力クラスを続々と獲得して、監督にはフランスワールドカップを経験してコンサドーレ札幌をJ1へ導いた元日本代表岡田武史監督を招聘。
2003年に1stステージおよび2ndステージ共に優勝、完全優勝で年間王者を獲得しています。
この時のチームは他クラブでも結果を出していた代表クラスの選手を代表監督が率いて、非常に堅実なサッカーをしていたので強いけど面白くないともいわれていましたね。
今思うと優勝して当たり前のチームかなと思います。
Jリーグ初期は魅せるヴェルディ川崎、勝つ鹿島アントラーズ、負けない横浜Fマリノスという3チームが牽引していました。
中期から現在まで
2006年岡田武史体制が終わり、2007年に豪華なマリノスタウンに練習場・クラブハウスを移転したことで以前のように国内のタレントを獲得出来なくなっていきます。
堅実に強いチームが、そこそこ強い中堅チームへ格が落ちていった時代ですね。
2013年に天皇杯を優勝するまでタイトルから遠ざかります。
2013年はマルキーニョス選手、ヨーロッパから復帰していた中村俊輔選手が好調だったことに加えて斎藤学選手が台頭するなどユース出身選手が主力に成長していきました。
2014年以降は補強資金が下がり、中村俊輔選手を放出するなど主力の流出が相次いだもののシティ・フットボールグループがフロントに入ったことで選手獲得、監督人事が安定。
モンバエルツ監督が若手選手を育成しつつチーム戦術のベースを作り、ゾーンディフェンスを構築。
Jリーグでも有数のモダンサッカーを実践するチームへと姿を変えつつ中位をキープし。
2018年ポステコグルー監督が就任してポゼッションサッカーへ路線を変更したことが裏目に出たのか降格危機となっていますが、JリーグでJ2経験がないのは鹿島アントラーズと横浜マリノスだけなので、チーム初の降格となるのか注目です。