ベガルタ仙台の歴史!発足~初期~中期~現在
チーム発足から初期
1988年創部の東北電力サッカー部を母体とする宮城県仙台市をホームタウンとするクラブです。
1999年にJリーグに加盟。
ベガルタは仙台七夕の織姫と彦星(ベガとアルタイル)を合わせた造語だそうで、発表当時は分かりずらいと不評でしたがすっかり定着しました。
チームカラーは黄色に見えますが七夕の星の色(ベガルタゴールド)となっています。
よくユニフォームを見ると光っているので注目してください!
1999年にJ2に加盟して2001年にJ1昇格を果たします。
この時のチームは岩本輝雄選手という左利きのセットプレーの名手とマルコスというストライカーが大きな役割を果たしましたので、以後ベガルタ仙台の特徴はブラジル人ストライカーとセットプレーとなっていきます。
2002年は日本代表にも選出されたフォワード山下芳輝選手の活躍によりギリギリ残留を果たすも2003年にJ2に降格して以降2009年までJ2に低迷します。
大きなスポンサーを持たないベガルタ仙台は資金力が不足して佐藤寿人選手、シルビーニョ選手、ボルジェス選手などJ2最高のタレントを獲得しては他クラブに引き抜かれ、長期的な視点での強化、若手育成も上手くいかない時期が続いていました。
悪い流れを変えたのが、後のリオデジャネイロオリンピック日本代表監督手倉森誠氏です。
2007年にヘッドコーチに就任するとゴールキーパーの林卓人選手を中心に守備の安定化に貢献して、2008年に監督に就任してエリゼウ選手、渡辺広大選手、リャン・ヨンギ選手、関口訓充選手、菅井直樹選手を軸にチームのベースを作り2009年にはJ2優勝を果たしました。
手倉森誠監督は4-4-2のゾーンディフェンスを徹底して守備的な戦い方からリャンヨンギ選手のセットプレーとカウンターアタックを軸にチャンスを作るチームスタイルを確立。
このチームスタイルでJ1に長く定着していくことになります。
2011年には東日本大震災に見舞われ、チームは被災するものの練習時間外にボランティア活動を精力的に行うなど、地域密着型クラブとして結果的に地域に愛される結果となり、チームも復興のシンボル的存在としてスポーツを超えたモチベーションを発揮して震災中断期間以後12試合無敗と調子を上げ最終順位はJ1で4位となりました。
2011年、2012年のベガルタ仙台は伝説的なチームです。
震災からの復興というストーリーは手倉森誠監督のモチベーターとしての能力が最大限に発揮され、メディアを通じて手倉森誠監督の言葉はサポーターのみならず東北を巻き込んでいきました。
また、チームとしてもベガルタ仙台の強い時のパターンであるセットプレーのキッカー・リャンヨンギ選手とブラジル人ストライカー・ディエゴ選手、ウィルソン選手がそろっていて、4-4-2のゾーンディフェンスが円熟期に入っていたことも好調の要因ですべてが噛み合ったチームだったといえますし、この時にベガルタ仙台のサポーターとなったという人は多いでしょうね。
2012年はJ1で2位に躍進して初のアジアチャンピョンズリーグ出場権を獲得しました。
しかし、2013年はアジアチャンピョンズリーグとJリーグとの両立に苦しみけが人も続出。
チームとしても主力選手が固まりすぎて、いわゆる賞味期限切れのチームとなってしまっていました。
J1下位に低迷して手倉森誠監督は辞任してリオデジャネイロオリンピック代表監督に就任。
一つのサイクルが終わりました。
中期から現在まで
手倉森誠体制以降のベガルタ仙台は堅守速攻型からポゼッションスタイルへの変革を目指すものの降格危機となり元の堅守速攻型に戻すを繰り返します。
渡辺晋監督は手倉森誠監督ほどのカリスマ性はないものの優秀な戦術家であり、海外サッカーを日々研究するなど勉強熱心で少しずつ自身のポゼッションスタイルのサッカーを成長させていきました。
2014年以降にJ1下位~中位で安定していたのは、手倉森誠監督がつくった戻ることが出来るスタイルがありながらも、新しいスタイルに挑戦していた事が理由といえます。
中心選手を資金力のあるチームに引き抜かれながらも我慢強く進化を続けたチームは徐々に順位を上げて2018年にはJ1上位に食らいついています。
ベガルタ仙台は親会社を持たないので資金力を考えると、J1でも下の方ですが地域密着型クラブとしてかなりうまくやっているチームといえますね。
中規模の球技専用スタジアムは地域密着型クラブには適正で、陸上競技場で試合が見づらく、一体感を得られない多くの地方クラブにとっての見本のようなクラブとなっています。
しかし、今後も成長を続けてJ1の上位をうかがうチームであり続けるためには大きな企業がバックアップすることと2万人収容のホームスタジアムの増築か新スタジアムの建設が必要だと思います。