ガンバ大阪の歴史!発足~初期~中期~現在
発足から初期まで
1980年創部の松下電器産業サッカー部が前身で1993年のJリーグ開幕時より加盟しているオリジナル10の一つです。
大阪府吹田市をホームタウンとしていて、大阪府大阪市をホームタウンとするセレッソ大阪とは地域が違います。
セレッソ大阪サポーターからは大阪は自分たちだという意味でガンバ吹田と呼ばれることもありますが、大阪府は南北で対立している地域ということもあってライバル意識が両チームを育てる良い関係性かなと思いますね。
ガンバの由来は日本語で頑張るという意味もありますが、イタリア語で脚を意味していてスペイン語ではエビを意味します。
大阪城とスピルバーグの映画に引っ掛けて大阪ジョーズとなる可能性が高かったですが、瀬戸内海でサメが出没する事件が発生したことで不採用となり、ガンバに落ち着きました。
マスコットキャラクターはガンバボーイで人間をモチーフとした珍しいキャラクターのようですが、正確にはゼウスの生まれ変わりという設定であり、人間かどうかは明らかにはなっていません。
1993年、日本代表最多得点記録保持者である釜本邦茂選手が初代監督を務め、永島昭浩選手。磯貝洋光選手、松波正信選手を中心に攻撃的なポジションで才能のある選手が所属。
攻撃陣にタレントがいるものの、チームとしての規律に欠けて守備が残念というチームカラーは今も昔も変わらないかなと思います。
初期は下位争いをするチームでJリーグのお荷物といわれていました。
チームが浮上するきっかけとなったのは、外国人選手の補強とユース出身選手の活躍です。
カメルーン代表のエムボマ選手は「浪速のクロヒョウ」と称され驚異的な身体能力でJリーグ得点王に輝き、マグノ・アウベス選手、アラウージョ選手、パトリック選手など外国人ストライカーがチームの得点源となっていきました。
1995年に下部組織出身選手第1号として宮本恒靖選手が昇格して以降、稲本潤一選手、家長昭博選手、宇佐美貴史選手、堂安律選手、大黒将志選手、二川孝弘選手らを日本代表へ送り込みました。
2001年に遠藤保仁選手を獲得したことで、攻撃陣のタレントにパス供給しつつゲームをコントロールするようになるとチームは急激に強くなります。
西野明監督の下で攻撃陣が融合したチームは2005年にクラブ初のリーグ優勝。2007年にナビスコカップ優勝、2008年にアジアチャンピョンズリーグ、2008、2009年天皇杯優勝を果たしました。
中期から現在まで
2010年2011年は無冠に終わり、10年間指揮した西野明監督が退任。
2012年はセホーン監督が就任。
もともと呂比須ワグナー氏を監督に呼ぶ予定がライセンスの問題で監督にすることが出来ずにドタバタの中で就任した監督は最後まで何がしたいのか不明でしたね。
リーグ最多得点を記録しましたが、守備が崩壊してクラブ初の降格となりました。
2013年は長谷川健太監督が就任。
どちらかといえば守備的なチームスタイルでゾーンディフェンスをチームに浸透させながら若手選手も育成してチームの基盤を整え、J1昇格を果たしました。
日本代表で中心選手の遠藤保仁選手、今野泰幸選手がJ2でプレーするという状況となりJ2の観客動員は激増して、J2を盛り上げるという意味でも大きな貢献をしました。
J1に復帰したガンバ大阪はドイツから帰ってきた宇佐美貴史選手とパトリック選手の強力2トップが猛威を振るい、守備も強固となり、若手選手がハードワークできるチームに成長。
ナビスコカップ、天皇杯、J1の3冠を獲得!
3冠は鹿島アントラーズとガンバ大阪の2チームしか達成していない偉業でJ1に昇格した年の3冠獲得は、世界的にも例がないですね。
その後もチームは上位をキープして2016年サッカー専用スタジアムである吹田スタジアムが完成したものの、長谷川健太監督の守備的なサッカーは結果が付いてこなくなると攻撃が大好きなガンバサポーターと合わず2018年に監督交代。
クルピ監督が就任して自由にサッカーをさせるタイプの監督のもとでまたしても守備が崩壊。
チームを降格圏に沈めて、チームのレジェンド宮本恒靖監督が監督に緊急的に就任。
立て直しを図っています。
ガンバ大阪の特徴として攻撃的な志向を持ったチームなので、守備でバランスをとる監督が来た時には強いですが、守備的だとサポーター、選手の不満が溜まります。
今後はサッカーを見る環境として日本最高との呼び声も高い吹田スタジアムがあるので長期的には成功すると思いますが、長く遠藤保仁選手に攻撃を任せてきたので代わりを見つけるまでは成績は停滞期となるでしょう。