浦和レッズの歴史!発足~初期~中期~現在
チーム発足から初期
1950年に創部した三菱自動車工業サッカー部を母体として1991年Jリーグ開幕元年から加盟していたオリジナル10の一つです。
クラブカラーのレッドに三菱をあらわすダイヤモンドを加えてレッドダイヤモンズが正式な名称なんですが、長いのでレッズとほとんどの人が呼んでいます。
Jリーグ創世記にはJリーグのお荷物と呼ばれ1994年シーズンまでは下位に低迷し、スター選手も不在でした。
しかし、浦和駒場スタジアムには当時から多くの観客が訪れており、負けが込んでも客が入るという変わったサポーターの気質を持っていて、一部の噂によると負けるとビールの売り上げが上がるために利益が上がるといわれることもあるくらいチーム愛が強いサポーターに支えられていました。
チームの転機となったのは三菱自動車がダイムラークライスラーと資本提携を結んでいたためドイツサッカーとのパイプを利用したことです。
1994年シーズンに元ドイツ代表のミヒャエル・ルンメニゲ選手、ギド・ブッフバルト選手、ウーベ・バイン選手が加入。
1995年にはドイツ人のホルガ―・オジェック監督が就任するとドイツ人トリオに加えてミスターレッズこと福田正博選手が活躍。
福田正博選手は日本人初となる得点王を獲得して1stステージは3位と躍進を遂げました。
しかし、1996年には三菱自動車が経営不振で資金力が低下するとチームは低迷していき、1998年シーズンには日本サッカー史上最高の天才と称される小野伸二選手が加入したものの、1999年には小野伸二選手、福田正博選手が故障した影響もあり15位に沈んでJ2に降格しました。
2000年には圧倒的な資金力を誇りながらも3位大分トリニータと勝ち点1差でぎりぎり昇格をはたしました。
中期から現在まで
転機となったのは2001年です。
ホームスタジアムとなる2002年日韓ワールドカップへ向けて埼玉スタジアム2002が完成。
他の地域が大規模な陸上競技場を作る中でサッカースタジアムを建設したことで日本代表も多く使用する日本最高のサッカースタジアムとなり、浦和レッズの観客動員数も激増しました。
また、2001年は浦和市と大宮市が合併してさいたま市となりましたが、浦和市民は浦和への愛着が強く「浦和」を声高に叫ぶことが出来るという魅力が加わりさらに浦和市民に愛されていくことになります。
また、大宮アルディージャとのさいたまダービーは他のスポーツにはない盛り上がり方をみせ、さいたま市への合併の不満の受け皿のような役割を果たしました。
日本最高のサッカースタジアムと浦和の象徴という称号を手にした浦和レッズは経営規模がJリーグナンバーワンへ駆け上がっていき、2002年にはフォワード・エメルソン選手を獲得してナビスコカップ決勝進出、2003年ナビスコカップ優勝を果たしJリーグを代表する強豪クラブとなります。
2004年にはクラブのレジェンドであるギド・ブッフバルトを監督に招聘。
清水エスパルスから日本代表の三都主アレサンドロ選手、田中マルクス闘莉王選手を獲得して金満ビッグクラブ型の強化でセカンドステージ優勝。
2005年、2006年、2007年にはポンテ選手、ワシントン選手を獲得してJ1優勝、天皇杯優勝。アジアチャンピョンズリーグ優勝を果たしました。
2008年以降は低迷期に入ります。
親会社の三菱自動車の経営危機の影響もあって三都主アレサンドロ選手、ポンテ選手、ワシントン選手、長谷部誠選手、田中マルクス闘莉王選手が相次いで流出。
チームスタイルも定まらず、若手を育成するのかも方針が曖昧なまま順位は下がっていき2011年には15位にまで順位を落とします。
2度目の転機は2012年に就任したミハイロ・ペトロヴィッチ監督を招聘したこと。
ポゼッションサッカーとミシャ式を称される可変フォーメーションを操りサンフレッチェ広島を黄金期へ導いた東欧の奇才は浦和レッズでも結果と内容を残します。
元サンフレッチェ広島の教え子である西川周作選手、柏木陽介選手、槙野智章選手に加えて阿部勇樹選手、興梠慎三選手、原口元気選手がいたチームはゴールキーパーから華麗にフォーメーションを変えながらパスを繋いで相手の守備陣を崩していくスペクタクルな攻撃を見せて躍進。
その美しいサッカーはサポーターを魅了しました。
上位争いに定期的に顔を出すチームに復活を果たしています。
2017年に成績が低迷して解任されるまで愛されたミシャのサッカーは解任後も継承され、アジアチャンピョンズリーグ2017で2度目の優勝を果たしています。
オズワルド・オリヴェイラ監督が就任した2018年シーズンはミシャ式のポゼッションの仕組みを部分的に残しつつも、現実的に勝ちにこだわるサッカーへの転換を図っていますね。
今後も浦和レッズがJリーグでビッグクラブであり続けるには、三菱自動車への依存体質から完全に脱却して新たな企業の力も積極的に取り込んでいく必要があるでしょう。